言葉の豊かさ

お話会を聞きにいきました。図書館においてあったプログラムを見て、一目で、いきたいと思ったのは、その中に『金の足のベルタ』があったからです。『金の足のベルタ』は私が子どもの頃に持っていた本でとても好きな一冊でした。年ととった乳母が、子どもたちを寝かしつけるときに、靴下をつくろいながらこの靴下の穴はまるで・・・と自分の思い出を語ってくれる、お話。

もう一度読んでみたくて、今でも古本でないだろうかとことあるごとに探してみてはいたのですが、こんなところで再会できるとは!

さて、お話会は、全部で6つのおはなしと、わらべ歌や手遊び歌で、およそ1時間半のプログラムでした。もしかしたら途中で座っていられなくなるかもしれないと、一番入口に近い席をとりました。

最初の4つは昔話。『金の足のベルタ」』ともうひとつの安房直子さんのお話は「創作」というジャンルになるそうです。

語りは、その情景が頭の中に流れてくるような不思議な力がありました。途中、なぞっているな、とふと現実に引き戻されてしまうことも、生の語りならではのハプニングでしょう。お客さんたちもそしらぬふりで先を先をとせがみます。おとなでもこどもでもなく、語り手と聞き手だけの世界でした。

『狼おじさん』は、くいしんぼうの女の子に煮え湯を飲まされた狼おじさんが、女の子を食べにやってくるというお話。狼おじさんがじわりじわりと近づいてくる様子が、短い言葉でたくみに表現されていて、本当にぞくぞくしました。そして、助かるのかなと思っている気持ちまであっという間に丸呑みされたときの驚き。一瞬の沈黙。そのおはなしの閉じ方に、いつのまにか夢中になっていました。

長く会いたかった、『金の足のベルタ』は、ほんとうに素敵な語りでした。このおはなしにぴったりの、静かでかわいらしい声。最後のひと言が終わるまで、自分でページをめくりながら、挿絵を見ながら読んでいるかのような気分でした。

一番最後は、安房直子さんの『サリーさんの手』。これは、おとなの童話でしょうか。主人公が冒頭で部屋を借りるところから、すっかり私の中に風景が出来上がっていました。お話を始める前に、少し紹介がありましたが、安房直子さんの言葉の選び方はほんとうに細やかです。冗長でも、飾り立てた文章でもなく、たったそのひとことで、人の心に訴えかけてくる力強さ。それをさらに完成させる、語り手の深みのある穏やかな声。心地よい音楽を聴いているかのような幸福感が、ときおりふと湧き上がってくることに新鮮な驚きがありました。

言葉の豊かさの前に、ひれふしつつも満ち足りた気分のひと時でした。

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吹奏楽祭

今日は地元で吹奏楽祭があり、娘の中学も参加するので朝から弁当つくりや送迎で忙しかった。

出番はお昼過ぎ。ホール鑑賞はやや苦手だけれど、最後列に座れたので、できるだけ聴いてみることにした。今年は課題曲がマーチの年である。マーチにこだわるわけではないが、やはり聴きやすく、吹奏楽って感じがするので気持ちがいい。この心地よさは例えると何だろう・・と考えてみるに、たとえばパン作りの生地を成形するときの、あの掌の中でくるくると丸まっていく、やわらかくてすべらかな感触・・・なんてどうかな?

5校分聴いたところでお尻が痛くなってきたので一度リタイアし、お昼を食べてからもう一度チャレンジした。ぜひ、『『篤姫』のメインテーマ』が聴きたかったからである。いつもテレビで聴いているオーケストラの音が耳に残っていて、吹奏楽だとどんな風に聞こえるんだろうと思ったが、まったく違和感がなかった。何回でも聴きたい名曲。

あと、面白かったのは、『伝説のアイルランド』。掛け声や足拍子を入れたり、意表をつかれてというのもあったが、曲の端端で情景がふと浮かんでくるような、味わいのある曲だった。

『たなばた』も聴きたかった一曲。小気味のよいメロディが楽しい。

人の多い中をさまよいつつ、落ち着かなさを始終感じながらも、自分で決めた目標を達成できたのでよしとしよう。

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夜景

梅雨が明けたとたん、夏の日差しが強烈にふりそそぐ毎日。

夏の夜空では、南の空の木星が見頃になっている。昨夜11時ごろ、かなり高く上った木星を望遠鏡で覗いてみた。我が家の望遠鏡は、これ。

http://www.orbys.co.jp/kol/spica.htm

工作教室での試作品をもらってきた。紙筒にレンズをはめて張り合わせただけの、おもちゃのような仕様に、最初は、「えぇ~~、これ??」って思ったけれど、ビデオ用の三脚を使えば手ぶれもせず、月や惑星を見るには丁度よい手軽さ。木星の縞模様も四大衛星もちゃんと見える、スグレモノである。

七夕はやや雲が出ていた。次の日、娘が「○○ちゃんが昨日天の川を見たって」と言ったけれど、たぶんそれは雲だったんじゃないかなと思う。このあたりは住宅地で、街灯がなくかなり暗い所もあるが、周りの商業地区のネオンのおかげで地平線はどこもぼぉっと明るい。つまり、いつまでも薄明薄暮が消えない状態なので天の川はちょっとキビシイ。

七夕ライトダウンという文字を眼にしたので、その夜はわが家でも電気を消してロウソクをともしてみた。

http://www.lightdown.jp/

世界の夜景を見ると、日本が異常に明るい。なんだか悪いものを見てしまったような気になる。人口密度が高いから仕方がないのかもしれないが、海外では部屋の中が間接照明で薄暗いことを考えるとやはり無駄な照明が多すぎると思う。過度の明るさは視覚への過度の刺激となり、ひいては就寝前の脳を興奮させてしまうことにもなるのではないだろうか。それで睡眠障害となれば、二重の無駄である。といって、街灯を消したら防犯にならないではないかとか、ネオンを消したら、経済が後退するではないかとか、反対意見もあるだろう。功罪を考える前に、少なくとも、これを見て誇らしい気持ちになるような人がどれくらいいるのか考えてみたい。わが町を、わが国を、どんな故郷にしたいのか、じっくり考えて、必要な灯り(それは、人間が歴史の中で育ててきた知恵の一部でもあるから)と不必要な灯りをしっかり区別したいものだ。

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記憶の海

夢の中で注射をされた。夢のはずなのに、とてもリアルな痛さだった。あれだ。歯の治療の時にされる麻酔。それとも、この間手の甲にされた、痛み止めの注射の記憶がまだ私の中に残っていたんだろうか。きゅるると引き絞られるような、独特の痛さに、私はじっと夢の中でがまんをしていた。なんでかって、それはここ数日の目の疲れが、これですっきりとれますよ、っていう手術だったからで、これさえ我慢すれば、と耐えていたら、お医者さんが「じゃ、とるよ」と言ってなにやらズルズルと引っ張り出した。「やっぱり、耳下腺だね」だって!耳下腺をとっちゃったの?しかも、眼から??

そうそう、肘のところにも、ずっと痛みがある。時々痛みで物がつかめないくらいなんです、って訴えたら、肘にも注射され、再びあの痛み。これでようやく解放されると思っていたら目が覚めた。

夢の中で一部だけがリアルなのは、そこの部分が実際経験したことだからなのだろうか。高校生の頃、自転車で派手に転んだことがあるが、夢の中で(事故などで)体が飛ばされる時はきまってあの時の感覚がスローモーション(!)で再現され、それを夢の中の自分が冷静に「あ~まただ・・」と感じているという、あれと似たパターンだなと思った。

夢というのは脳が記憶の整理をしているのだ、と以前何かで読んだが、そういわれれば、と合点する夢が多い。たとえば昨夜の夢にしても、脈絡はともかくとしてそれぞれのパーツは「気にかけていること」「気にしていること」と一致している。耳下腺というのはおそらくここ数日娘が奥歯の痛みを訴えていて、昨日歯医者に行ったら「ばい菌がはいって歯茎に炎症があるからリンパ腺も腫れているらしい」と言われたことが頭に残っていたのではないかと思う(こじつければ)。

ただ、それでも不思議なのは、そういう記憶が決して起きた順番に夢に現れるわけではないということ。記憶が深い海のようなものだとしたら、まだ沈んで間もない思いと、ずっと深い底に沈んでしまったと実感している思いと、途中の岩だとか海草だとかに引っかかってしまい、沈んでもいかず時々海の流れに巻き上げられて揺れ動くような思いとかがある、と自分では勝手に分類している。けれども、夢の中ではこういう、違う種類だと思っていた記憶がすべてごっちゃのように登場することがあるのでそのたびに混乱してしまうのだ。「もう気持ちの整理がついたと思っていたのに・・」「すっかり忘れたと思っていたのに・・」私の脳は忘れていなかったということなのか、まだ上手に整理ができていなかったいうことなのか。似たような夢で少しずつ違うパターンをよく見るのも、何べんも整理し直しているのだろうか。目覚めて、そんなことを考えている時は、また一方で、それだけ沢山の整理がつかないような記憶を溜め込んできたという、時間の量にもふと感慨を覚えてしまう。

思い出と、くくれない、こうした記憶を、なんのために溜め込んでいくんだろう。

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一瞬のいのち

京都で大学生活を送っている息子と、時々携帯電話で話す。家族同士が無料になってありがたいものである。どんな風に暮らしているのやら、とはあまり思わない。「見ない方かいいよ」と忠告してくれる友人もいるが、まあ大体の察しはつくのである。にしても、その一部始終をみることはこれからはなくなっていくんだな、と感じるこの頃、撮りためておいた小さい頃のビデオをDVDに編集する作業を少しずつ始めている。

改めて見返していると、おかしなことに気付いた。わが家がビデオを購入したのは彼が幼稚園の年長の頃。その頃になると一つ一つのしぐさがかわいくて・・ということがあまりないのは当然なのかもしれないけれど、「これって、わざと?」って思うくらい、おそらく本人は恥かしくて見たくないようなシーンの多いこと、多いこと。本人は一生懸命にやっているつもりなのだけれど、周りからはどうも、ワンテンポずれてある・・・(ビデオをみて「そうだったのね」と今更感じている私も、ある意味ワンテンポずれているのかも^^;)。よくよく思い出してみれば、あの頃はずれていようが、とりあえず集団生活に入って元気そうならば安心していた。それまでが超マイペースな子だったから、他の子と同じ事がちゃんとやれるだろうか、友だちとちゃんと遊べるだろうか、という心配をもうしなくてもよいと分かって安心しきっていた。まぁ、そんなことを言ったら「そりゃ、下の子の世話で精一杯で、ほったらかしだっただけだろう」と揶揄されそうだけれど。

パニックがひどくなってほとんど半病人になった頃には、見落とした表情も多いだろう。大切な時間を落っことしてしまったような寂しさもチョッピリ感じている。でも、最近思う。思い出は量ではなくて質なんだ。

小学校6年の修学旅行に出かける朝。彼は、本当に嬉しそうだった。もともと、気持ちが表には出る子であるが、そのうきうきさ加減は相当なものだった。アパートの下まで見送ると、なんども私のほうを振り返りながら、出かけていった。その時、彼の嬉しさが、私の心に伝わってきて、誰かに言いたくてたまらないような幸福な気持ちを感じた。その記憶がまだ消えない。

2度目は、高校1年の夏のキャンプから帰ってきたときだ。玄関の戸をあけたら、3日前に出かけた時とは全く違う、精悍な顔をした息子が立っていた。その瞬間、私の中に嬉しさがこみ上げてきた。実際、それから数時間で彼の顔は元に戻ってしまったんだけど(^^;)、今もあの時に感じた嬉しさを忘れられないでいる。

赤ちゃんの頃、幼い頃、そして今にいたるまでたくさんの思い出はもちろんあるけれど、思い出はどこか儚い。でも、この2つの思い出だけは、私に強い現実感を与えてくれる。私が生きている、そして、この子も生きているという、確かさ。

谷川俊太郎さんのこんな詩を思い出した。

娘よ
いつかおまえの
たったひとつの
ほほえみが
ひとりの男を
生かすことも
あるだろう
そのほほえみの
やさしさに
父と母は
信じるすべてを
のこすのだ
おのがいのちを
のこすのだ    『雛祭の日に』

生を感じさせてくれるのは、一瞬で、あとは長い長い日常があるだけだとしても、それを感じることができることこそ、幸せだと思う。二つの思い出は、ひょっとしたらほんの少しタイミングがずれていたら感じることのなかった心のゆれなのかもしれない。そのこと自体が普遍的に意味を持っているわけではなくて、たまたま気持ちの方向軸がどんぴしゃにあってしまったのだろう。それでも、誰かの心を一瞬でも揺るがすことのできる存在になってくれたこと、この2つの思い出をくれたことに感謝している。

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なんで!?

ふたたび、オーブンに異変が!

このタイプは『過熱水蒸気調理』というのができる。高温の水蒸気で調理するから油分をカットできるとかなんとか、つまるところ使う本人はその仕組みがよくわかっていないのだが、揚げ物でも入れておけばOK~なので手間要らずでヘルシーな機能のはず。油で揚げれば10分で済む料理が30分ほどかかるという「なんかおかしくない?」「電気代がよけいにかかりそう」変な話も気にしなければいい。

ということで、アジのフライをした。コンロが空くから他の調理もはかどり、気分よく料理を進め、さて、オーブンの方はと思っていたところ、

あと数分で調理終了のはずが・・・ピピピと突然鳴ってエラーメッセージが出た。しかも、説明書を見たら「故障です」だと!がぁぁ~~ん・・・・

よくよく家電に運がないのかしら(泣)販売店のブラックリストに載らなければいいけど。

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待つ

公文に来ている1年生の女の子。答えを書くたびに私に「せんせい、ここ、あってる?」と聞いてくる。「うん、だいじょうぶだよ。」と言っても、「ほんとに?うそついてない?」とくりくりしたかわいらしい目で私の顔を覗き込む。「だって、100てんじゃなきゃ、いやだもん」。困ったな、と思いながら見守っている。

娘に話したら、「完全になめられてるね」と笑われた。やる気を失わせないように、でも手を出し過ぎないように、声をかけたり、見守ったりするのは、本当に難しい。自分の子だったら少々泣いてもほったらかしても、いつもそばにいるから次のフォローができるけれど、週に2回、限られた時間でしか接していない子たちにはそれができないから。

それぞれの子どもの進度を考え、教材をセットするのは教室を主宰している先生の仕事で、私たちスタッフは「黒子に徹してください」と言われている。ということはいい流れの中で学習が進むように、採点を滞らせないことだけを考えていればいいのかもしれないのだけれど、実際に毎日やっていると、何かしらのハプニングに右往左往していることの方が多い。ちょっといい空気が漂ってきたなと思うや、そういうことに敏感な子がはしゃぎだすし、一人の子に少し手をかけてあげていると、ほかの子からも「かまってほしい光線」が飛んでくるし。次々に飛んでくる矢を上手に受けたりかわしたりするには、機敏さが足りてないことを実感する日々(年々衰えているからなぁ)。そういう細かい子どもたちの変化に、スタッフがどこまでかかわるべきなのか、悩みは尽きない。

今月に入って、英語をみていた子が二人退会してしまった。聞いた瞬間には「なにがいけなかったのかな」と、どうしてもネガティヴに考えてしまう。まるで、私がもうちょっと気付いてあげたらそうはならなかったかもしれない、と思う傲慢さに我ながら苦笑。でも、思い返せば私自身、息子を通わせている間になんどもやめさせようかな、と思ったのだ。1教科6000円ちょっとは決して安い月謝ではないし、そのころの私の公文に対する認識は「教室でただ自習するだけ」というものだったから、家でプリント学習すればもっと安くつくかもと思ったりもした。それに、公文の教材では学校で習う範囲をすべてカバーすることはできないので、成績を効果的にあげようと思っているなら塾の方が確かにいいのかもしれない。退会した子たちが、ほかの場所で「よかった」と思えるならそれでいいんだと思う。

ただ、公文の特徴はなんといっても就学前の子から高校生の子までいる環境だ。同じ学年の子でもやっているプリントはそれぞれ違う。一人一人が違うことをしているというのは、特に今の時代の子どもたちにとっては貴重だと思う。即効果があるのは計算力くらいなのかもしれないけれど、こういう環境で勉強したことは長い目でみればいい経験になるんじゃないかな。

保護者、教室、子ども、の全部の立場を満足させることはできないと実感した上で、どこを自分のスタンスにしようかと考えたとき、「私が動かないことかな」とふと思うこの頃。

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家電との相性が問題?

自炊する(はずの)息子に家にあったオーブンレンジを押し付けて(笑)、このさい、と新しいのを買いましたwinkほくほく・・・のはずだったのに、どうもオカシイ。

スチーム料理ができるということで、娘がさっそくプリンを作ってみたのですが、組み込まれているオートメニューの時間内では全然固まらないのです。さらに手動で時間をかけて、さらにかけて・・結局設定されていた時間の2倍をかけて、ようやくトロントロンのプリンになったものの、蒸気に使われたはずのカセットの中の水の減り方も絶対変!ほとんど減っていないんですもの。

こまったなぁ、まさか不良品じゃないよなぁ、と思っても、決定的な欠陥が見つからなくては訴えようもない。とりあえずメーカーの修理の人に来てもらいましたが、明らかな欠陥ならエラーメッセージが出るとのことなので、強気に「替えてください」どころか、おずおずと「替えてくれませんか」とも言えなくてうじうじすること1ヶ月。

ついに意を決して販売店に掛け合いました。まだ購入して1ヶ月ですから交換は可、とのこと!ほっとしたついでに、今度は欲が出て、「別のメーカーのに替えてもらえないでしょうか」。あとで考えたら、めちゃくちゃずうずうしいお願いでしたね。

お店の人はOKをくれましたが、延々迷った挙句、結局選んだのは同じメーカーの製品でした(なんのこっちゃ)。帰り道「また調子が悪かったらどうしよう」と思いつつも、もうこれは運命かも・・とひらきなおり。

そして、今日。再びプリンに挑戦。

できた~~~sign03 時間通り。スチームも十分に出て、タンクの水もちゃんと減っていました。まちがいない!あれは欠陥品だった(きっぱり)。

ううっ、替えてよかった。

(蛇足ですが、私はどうも電化製品運が悪いです。買ったばかりで返品交換は今までにも何回かありました。それに、買った翌週にその商品の値下げがあるっていうのもしょっちゅうなので、正直家電店に行くといつもいやな予感がします。)

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カレーくないスパ

カレーは外では食べたことがありません。あまり好きではないのかな。でも、家ではちょくちょく作ります。ここ数年はトマトベースで煮込んだものにスパイスとカレーのフレークを入れて味付けしたものがお気に入り。(それをカレーと言えるのかどうかは別として)

200805281234001 今日のお昼ご飯は、昨日のカレーをスパゲッティにまぜたもの。カレーうどんはあるけれど、カレースパって・・・どうしてあまりないのかな?



うん、オイシイhappy01


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雨の日に

今日は雨。歯医者が長引いたので、プールに行く気になれず、家に帰って借りていた本を読むことにしました。

Photo_2 『よし!学校をつくろうー神父ゴッちゃんの履歴書』(後藤文雄著 講談社)

ああ、また聖職者モノか・・・と最初はちょっと乗り気ではなかったのですが、たまたまこの本の著者である神父様が、私が小さい頃に通っていた教会に一時期いらしたという縁つづきで、私の手元にまわってきたのでした。といって、教会のミサをさぼって裏庭で遊ぶことばかり考えていたような子どもでしたから、名前は覚えているものの、黒いスータン(神父の服)の上にどんな顔が乗っていたか、よく思い出せない。どんな人だったんだろうという興味で読み始めて、途中ボロボロ涙を流し、心の保養をした気分になりました。

実は、息子が京都に行く時に、「僕は教会にはたぶん行かないよ」と私に言ったのです。それを聞いた時はちょっと悲しかったのですが、息子が感じている「宗教という閉塞感」が何となく分かるような気もして言葉がうまく出ませんでした。たとえば、このような半生記を読んで「すべては思し召しだったのですね」と合点するのが嫌い。信じないわけではないけれど、他人の血や汗や涙を簡単に言葉で打ち消してしまうような気がするのです。教会の中にはたしかにそんな雰囲気がある。人間が集まり、言葉が一人歩きしていく場面ではそういうことも仕方のないことだと思うけれど、そういう「どれが確かなものかわからない」玉石混合の世界に飛び込んでいくことに躊躇してしまう。

けれど、この本を読んだら、うまくいえないのですが「まわりじゃなくて芯の部分」が感じられたのです。「人生の不条理を納得するための考え方」ではない、なにか。「宗教」という言葉で勝手に形を作ってしまってはいけないような、なにか。そして、それを察知するアンテナを人間はもっているんだと思えた安心感のようなもの。う~ん、よくわかんないけど、今日はちょっぴり『金鉱を掘り当てた気分』かなshine

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