« 2008年11月 | トップページ | 2009年1月 »

大掃除は何もしないで年を越した。年末、いろいろあったので「ま、いいか」と思っていたが、さすがに掃除機くらいはかけたほうがいいよなぁと気になったので、ゴロゴロしていた夫に「ねえ、ひまなら掃除機かけてくれない?」と頼んだら「暇じゃないよ、風邪気味でだるいんだ」とのこと。私は朝から台所に立ちっぱなし。しゃあないか、埃では死なないし、と思った瞬間夫の言葉にカチンときた。「運動不足だからだるいのかな。ちょっと運動してこようかな」。

そうして、夫は本当に散歩に出かけ、帰ってくると自慢の万歩計の歩数が増えたと報告し、「何となく調子もよくなったかも」とのたもうた。いや~な気分である。洗い物をしながらモヤモヤをぶつけたくなってくる。その時頭の中になぜか『ちびのボッツフォード』という文字が浮かんだ。『三人のおまわりさん』に出てくる男の子の名前だ。いつ読んだかも忘れてしまったのにどうして浮かんできたのか、不思議だけれど、ストーリーを思い出しながら手を動かしているうちに少し気分が晴れてきた。

ちびのボッツフォードになればいい。なりきりで、楽しんだ方がいい。頭にきたのは、自分が頑張っていることを認めてもらえなかったからだ。ボッツフォードみたいに、黙々と仕事をこなしながら自分で楽しめばよかったのに。こんな時、本を読んでおいてよかったなと思う。次は上手に頼んでみようかな。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

サンタがいっぱい

プラネタリウムでボランティアを始めてからは、毎年この頃になるとクリスマス番組のお手伝いに忙しい。もちろん、自分も楽しんでいる。ありがたいことに、ゴスペルグループにも依頼を頂いて、そちらの練習にもバタバタ。

ゴスペルでも、プラネタリウムでも、『クリスマス』そして『サンタクロース』は欠かせない。でもわが家ではサンタはやや遠い人になってしまったんだよね。下の娘も、中学生になった頃からかな、サンタに手紙を書かなくなった。ああ、お楽しみが終っちゃったなあ、という感慨と同時に、こんな終り方でよかったのだろうかと最近思う。ばれたから終わりの、ただのお楽しみでよかったのかな。なぜ、親からではなくサンタさんからプレゼントが届くことにしたかったのかな。別に親からのプレゼントだって、いいのに。サンタは子どもに夢を与えられるから?ファンタジーだから?

子どもたちはこの季節になると、遠い雪深い国で、分厚いチェックリストを作って、自分へのプレゼントを考えてくれる人のことを思い出す。今年も来てくれるかなって。私を忘れていないかなって。ちょっと待って!どうしてサンタは私の存在を知っているの?

「サンタクロースは何でも知っているんだよ」って一言ですませちゃったけれど、でも、それって、すごいことなんだよね。だってその人は自分のことを一年間見ていてくれたんだよ。自分はその人のことをクリスマスのときしか思い出さないのにね。

ああ、そうか、親だけじゃなくて、この世界にあなたを見ている人がいるんだよって、子どもに信じてほしかったのかもしれない。

サンタさんが持ってきてくれるほんとうの聖夜のプレゼントは、『あなたを大切にしている』というメッセージなんだ。いつもあなたのことを気にかけているよ、そばにいるよ、と贈り物を持って伝えに来てくれたら、心の芯まで暖かくなるよね。

だから、サンタを信じるっていうことは、白いひげのでっぷり太ったおじいさんがこの世にいるかどうかって事じゃなくて、自分の周りにある温かい心を知ること、知らせてあげることなのかもしれない。あなたのことを気にかけてくれる人がいるんだよ、ということを伝えたいから人はサンタになる。だから、伝えてあげたい人がいる限り「ばれちゃったからもう終わり」ということはないんだよね。

数日前の西日本新聞で、路上生活者のために炊き出しをしているボランティアグループの紹介があった。私が送ってみようかな、とネットで検索しているうちに、その翌々日くらいには、たくさんのカンパや物資がこのグループ宛てに送られてきていると、また記事が伝えていた。多くの人が即行動に出ているんだなぁ。

この街にも、たくさんのサンタがいるんだね。サンタを卒業した子どもたちと、もう一度サンタのことを話してみよう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

投影2回目

今日は3時の回の投影を引き受けていました。けれども、朝起きた時から頭がガンガンしていて、お昼ご飯を食べた後頭痛薬を飲んでみたものの直前になっても痛みが引きません。これでは、ヘッドセットのマイクを付けたら余計に締め付けられて呂律が廻るかどうかものすごく不安。

おまけに、日曜に初めての投影をした時、なぜか異常に緊張して息が止まるのではないかというくらい苦しかったのが後を引いていて、いつもよりもさらに不安感がありました。でもここでキャンセルしたらきっと次のハードルが高くなってしまう。どうしても途中で苦しくなったらギブアップしよう!とにかくチャレンジしよう!そんな私を支えてくれたのは、解説員のOさんです。

緊張で冷たくなっている私の手を解説の直前まで両手で包み込んで温めてくれました。掌からじんわり伝わってくるぬくもりが心の中にエネルギーのようにたまってきます。解説の途中、音楽を流している間も(ここは星座解説までちょっと間があるために、よけいに緊張してしまうところです)またまた手を温めながら小声で「がんばってくださいね~」とエールを送って下さいました。

冬の星座はオリオン座から始まって、おおいぬ、こいぬ、おうし、ぎょしゃ、ふたごと続くのですが、頭の片隅で「まだ、前半だなあ」とか「あとどれくらいだろう」などと図ってしまうと逆に緊張してしまうようです。お客さんの反応があると気がまぎれて話に集中できるものでもあるのですが、今日のお客さんはとても静かに聞いてくださっていたので、途中「お客さん、いるよね?・・・なんだか生体反応が感じられないんだけど」と思ったほど。というわけで、ひたすら自分との闘い(?)となり、心の邪念を追いはらいながら話し続けて、ようやく後半の物語(録音)に入ったときには本当にホッとしました。

去年の暮れの火星観望会の頃から、妙に緊張することがあって、自分なりに何とか克服したいと思っているのですが、今日はひとついい収穫を得ることができました。

私の危なっかしい解説を後ろから見守っているよりも自分で解説をした方がずっと楽だったでしょうに、温かく見守り応援をしてくださったOさん、ありがとうございました!

| | コメント (0) | トラックバック (0)

12月 京都・滋賀へ

京都に行ってきました。12月の京都は、父の退官祝いに兄弟で集まって以来17年ぶり。(ん?兄弟って不便な漢字ですね・・・真ん中にいる妹であり姉である私はどうすればいいんでしょ)

晩秋紅葉はやや終わりがけとはいえ、京都盆地を取り囲む山々はまだ綺麗に色づいていました。清水あるいは東福寺あたりまで足を伸ばして見事な紅葉を観てみたいけれど、いやいや、あの下はすごい人出なのだろうなぁ、と逡巡。なにしろ、今回は目的が紅葉見物ではないので時間的余裕がありません。結局、京都駅からそのまま東海道線を乗り継いで大津に直行いたしました。

そして、琵琶湖が一望できる部屋にチェックイン。この日はよく晴れていましたのに、琵琶湖大橋がはるか遠くに霞んでいます。あそこまででも湖全体のほんの一部分だと思うと、まあ、なんと広大な湖なのでしょう!Photo

今年は二年続けたキャラメルのクリスマス公演@新神戸をあきらめ、ここ大津の『びわこホール』で催される京都大学吹奏楽団の定期演奏会を聞きにきたのです。そもそもの始めはサマーコンサートの録音CDを聞かせてもらったこと。「なんかわからないけれど、行ってみたい」と思いました。中学や高校の演奏ばかり聞いてきたので、さすがに上手いなと思ったのもありますが、それだけでないような。

しかも、無料。(おっと、つい主婦根性が^^;)

会場の『びわこホール』は音響が素晴らしく、最初の曲が始まった時点で音の響きにただびっくり(なんたって、今までは公民館に毛の生えたような施設のホールでしか聞いたことがなかったですもんね^^;)。それからおよそ2時間あまり、演奏を満喫しました。ホールは4階席まであったのですが、3階席なら座席に余裕があるだろうと思っていたら、開演の頃には8割方が埋っているという盛況ぶりで、私にとってはやや圧迫感があったものの、大丈夫でした。Photo_2

構成は

1st stage : Abram's Pursuit
                 Armenian Dance Part 1
2nd  stage : マーチ『夢と勇気、憧れ、希望』
          Departure ~from "Good Luck!!"
                 ディズニー・ファンティリュージョン
        主よ人の望みの喜びよ
        クリスマスメドレー
3rd  stage : 組曲『惑星』より                             
        木星・金星・天王星・火星  

アンコールではマーチ『ベストフレンド』とサウンドオブミュージックの『すべての山にのぼれ』を2曲披露してくれたのですが、みんなで音を奏でる楽しさが伝わってきて、胸が熱くなりました。はるばる来てみたかったのは、この感覚を味わえる気がしたのかもしれません。同時に、心の底で願っていたものを見届けたような気持ちでした。

まあ、ひとつだけ心残りというか間抜けなことがありまして、眼鏡を持っていかなかったので3階席からは自分の息子がどれか最後までわからなかったんですけどね・・・coldsweats01

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ゆるゆると

アハナは寝る前に「明日は何時に起きればいい?」と確認してくる。慣れない場所で寝過ごしてはいけないと気をつけているのだろう、と思いきや、朝になると事態が変わってくる。

起きない。

「アハナ、朝ですよ」と遠慮がちに声をかけても、びくともしない。しまいには、身体を揺さぶりながら「起きなさ~い!」と叫ぶことに。

起きてからも、超マイペースで支度をしているので、集合時間に間に合うだろうかと周りのほうがハラハラした。ただ、彼女の支度の仕方は、すべて整えて、朝ご飯→即出発となっていたので、とりあえず遅刻することはなかったのだけれど。

アハナ、あなたがのんびりなだけ?と、何度も心の中で聞いてしまった・・・(ま、彼女は娘たちとの最初の対面の時も遅刻してきたそうだが^^;)

朝寝坊はともかく、時間の感覚については国民性もあるかもしれない。事前説明の時に、担当者から『NZ時間』という言葉を何回か聞かされていた。たとえば、こちらから生徒を派遣する際も、どの家庭にお世話になるのか、くわしい日程はどうなるのか、といったことがぎりぎりまでわからないことがあるという。それは別に先方の怠慢に寄るものではなく、「ごく普通のことなのです」(担当者)。NZに限らず、海外を旅行すると、日本とは時間の感覚が違うということを実感することが多い。私の両親も何度かヨーロッパに出かけているが、列車に乗ったものの発車時刻になってもまるで出発しないので訝っていると車掌に「客が揃ったら出ます」と平然と言われてびっくりしたことがあるそうだ。

以前にこの研修に参加した生徒が、その感想の中で「向こうで生活していた時は、時計を見なかった。家族も見ていなかった」と書いていた。ほおお。最後の見送りの時も、あやうく集合時刻に遅刻しそうになったけれど、着いてみたら、別にすぐに出発するでもなく、おしゃべりしたり、写真を撮ったり、さんざんのんびり過ごしてから「そろそろ・・」とバスに乗っていった。こんな感じでとにかくユルイ。なんだか羨ましくなるではないか。

でも、まてよ。私だって子どもの頃は今ほど時間を気にはしていなかったと思う。学校のチャイムだけが私の時計だった。ところが今は、ただの主婦だというのにカレンダーに時刻がいっぱい書き込まれている。それを上手にこなしているとなんだか充実しているかのような気になる。

ふと、『モモ』(ミヒャエル・エンデ)の世界が浮かんできた。

時間を上手に綱渡りすることも必要だと分かっている。ただ、それはきっと自分が時間だと思っているだけの、目盛のようなもの。私たちはそれがついた軸の上にいながらも、まったく質の違うもうひとつの流れの中を生きている。手を止めて、ぼんやりとしていると、何度も何度も同じ時の階層に戻って一つのことを考えている自分に気付く。同じことを考えているのだけれど、前回とはちょっと違う気もするし、逆戻りしていると思うときもある。あるいは明るい道筋が見えてきたり、方法がわかったときも、すぐに手をつけずにまた次にこの場所に戻ってくるまでその考えを暖めてみようと思うときもある。時計を進めなければわからないこともあるし、どんなに進めてもわからないこともある。綱渡りの充実感の影に忘れがちになるもうひとつの『時間』、大切にしたい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2008年11月 | トップページ | 2009年1月 »