アハナは寝る前に「明日は何時に起きればいい?」と確認してくる。慣れない場所で寝過ごしてはいけないと気をつけているのだろう、と思いきや、朝になると事態が変わってくる。
起きない。
「アハナ、朝ですよ」と遠慮がちに声をかけても、びくともしない。しまいには、身体を揺さぶりながら「起きなさ~い!」と叫ぶことに。
起きてからも、超マイペースで支度をしているので、集合時間に間に合うだろうかと周りのほうがハラハラした。ただ、彼女の支度の仕方は、すべて整えて、朝ご飯→即出発となっていたので、とりあえず遅刻することはなかったのだけれど。
アハナ、あなたがのんびりなだけ?と、何度も心の中で聞いてしまった・・・(ま、彼女は娘たちとの最初の対面の時も遅刻してきたそうだが^^;)
朝寝坊はともかく、時間の感覚については国民性もあるかもしれない。事前説明の時に、担当者から『NZ時間』という言葉を何回か聞かされていた。たとえば、こちらから生徒を派遣する際も、どの家庭にお世話になるのか、くわしい日程はどうなるのか、といったことがぎりぎりまでわからないことがあるという。それは別に先方の怠慢に寄るものではなく、「ごく普通のことなのです」(担当者)。NZに限らず、海外を旅行すると、日本とは時間の感覚が違うということを実感することが多い。私の両親も何度かヨーロッパに出かけているが、列車に乗ったものの発車時刻になってもまるで出発しないので訝っていると車掌に「客が揃ったら出ます」と平然と言われてびっくりしたことがあるそうだ。
以前にこの研修に参加した生徒が、その感想の中で「向こうで生活していた時は、時計を見なかった。家族も見ていなかった」と書いていた。ほおお。最後の見送りの時も、あやうく集合時刻に遅刻しそうになったけれど、着いてみたら、別にすぐに出発するでもなく、おしゃべりしたり、写真を撮ったり、さんざんのんびり過ごしてから「そろそろ・・」とバスに乗っていった。こんな感じでとにかくユルイ。なんだか羨ましくなるではないか。
でも、まてよ。私だって子どもの頃は今ほど時間を気にはしていなかったと思う。学校のチャイムだけが私の時計だった。ところが今は、ただの主婦だというのにカレンダーに時刻がいっぱい書き込まれている。それを上手にこなしているとなんだか充実しているかのような気になる。
ふと、『モモ』(ミヒャエル・エンデ)の世界が浮かんできた。
時間を上手に綱渡りすることも必要だと分かっている。ただ、それはきっと自分が時間だと思っているだけの、目盛のようなもの。私たちはそれがついた軸の上にいながらも、まったく質の違うもうひとつの流れの中を生きている。手を止めて、ぼんやりとしていると、何度も何度も同じ時の階層に戻って一つのことを考えている自分に気付く。同じことを考えているのだけれど、前回とはちょっと違う気もするし、逆戻りしていると思うときもある。あるいは明るい道筋が見えてきたり、方法がわかったときも、すぐに手をつけずにまた次にこの場所に戻ってくるまでその考えを暖めてみようと思うときもある。時計を進めなければわからないこともあるし、どんなに進めてもわからないこともある。綱渡りの充実感の影に忘れがちになるもうひとつの『時間』、大切にしたい。
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